ロスジェネはえてしてこだわりすぎる

タグ:舞台

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2020年8月に下北沢本多劇場で行なわれた舞台『ワイルドなサイドを行け!』の配信を観劇しましたのでレポートします。

配信を観てからなんと1年後の記事ですが、それには理由があります。

正直、ピンとこなかったんですよ。

観た当時に箇条書きレベルまでは書いていたんですが、自分のこの作品に対する評価がどうにも定まらなくてどうしたもんかなあと。

ようやくその辺りの整理がついたので記事にしました。

配信でドタバタは難しい?


凄く期待していました。

コロナ禍の真っ只中で「劇場の灯を消すな」という関係者の熱い想いで実現した「DISTANCE」第1弾。小劇場の聖地・下北沢本多劇場。無観客の一人芝居。
しかも井上小百合にとっても乃木坂卒業後の初仕事。

これでもかとばかりに盛り上がる条件が揃っていました。
そして井上小百合はこれまでと同じように我々の期待を見事に超えてみせます。

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本当に素晴らしい公演でした。

その好評を受ける形で実現したのであろう今回の第2弾。観客数は絞っているものの有観客。
しかも共演の小林顕作さんは舞台『帝一の國』で演出を務めた方。今回も脚本、演出も兼ねておられます。
第1弾の川尻恵太さんに続き、乃木坂時代からのご縁。嫌でも期待が膨らみます。

でも、ピンとこなかったんですよ笑

ざっくりあらすじを書くとこんな感じ。

 駆け出しの若手女優(井上小百合)はドラマの現場で上手くいかずにムシャクシャしながら帰宅。
 発泡酒を飲みながらマネージャーに渡された「一流女優になるための秘訣」DVDを再生するも、そこに現れたのはバブリーな服で女装したおっさん(小林顕作)。
 W浅野に憧れ「あさだりょうこ」と名乗るおっさんが激しく踊るだけという全くためにならない内容に激怒した若手女優は直接あさだの家に乗り込み…

あれ、なんか面白くなりそうな雰囲気ありますね笑

ですが…もの凄くストレートに言うと、正直「全力の悪ふざけ」の域を出ていないように感じました。

いやわかんないですけど。本当は背後に深いメッセージとか風刺が隠されているのかもしれないですけれど。少なくとも私はちょっと受け取れませんでした。

これたぶん劇場で観たら面白かったんじゃないかな。

劇場なら文字通りの「熱」=体温がダイレクトに伝わりますし飛び散る汗も観えます。
でも演者の熱量が伝わりづらい配信ではドタバタ喜劇は難しい。

第1弾でさゆと同日に配信された永島敬三さんの『ときめきラビリンス』がタイプ的にはこれと近い感じだったんですが、やはり私には「あんまり」でした。

しかもこの日の配信は2本立てで1本目が感動系。
その余韻が残っている中で、女装したおっさんのダンスにふてくされた表情のさゆが悪態をつくというのをひたすら見せられてもねえ。

何でも演じられるのは良いことなのか?


さゆが演じたのはずっとふてくされてしかめ面しながら乱暴な言葉を吐くガラの悪いキャラ。恐らく役名もありません(私が聞き逃していなければ)。

「あ゛~!ビールにすりゃよかった」

初っ端からこんな台詞が飛び出します。
過去に演じた役でいえば『あさひなぐ』の将子ちゃんをさらに感じ悪くしたような。

そしてその「感じ悪さ」は最後まで続きました。
この舞台だけ観た人は井上小百合にあまりいい印象持たないだろうなと思うぐらい。
いやそれは演技プランとしては成功なんですが、個人的にはなんか釈然としませんでした。

ファンの贔屓目はもちろんあるでしょう。そりゃ10年も応援してますから笑

でも井上小百合には「ヤな奴」じゃない役を演じてほしい。
それを演じられる幅の広さはあっていいけど。
この日のさゆはきっちり最後までトゲトゲしてイライラしている役を演じ切っていて、それは役者として正しいことだと頭では理解できるんですけど。

なんて言うのか、さゆは仮にヤな奴でも悪人でも「どこか魅力のある人物」を演じる方が上手いと思うんですよ。

もちろん「魅力がない人物」をその通りに演じられる能力も必要でしょうし、何ならそれを器用にこなす役者さんの方が食いっぱぐれはない気がしますが笑

私が思うに、たぶんさゆは純モブキャラに向いていない。
あるいは、純モブキャラとしてだったらさゆを使う意味がない。
いやこれだと語弊がありますし、これでさゆの仕事が減ったら困るので言い換えます。

チョイ役でも、どこか観る人の心にひっかかりのある役柄の方が彼女の個性が活きる。
(この日は二人芝居なので別にモブじゃないんですけど)

それが井上小百合という演者なんだと思います。

ラストに「…いつか見つかるといいな、W浅野の再来が」みたいな歩み寄りというか希望の欠片を残す台詞でもあれば良かったと思うんですけどね。まあそういう甘さを残さないのが恐らく小林さんのスタイルなのでしょう。

あと思ったのが、やっぱりさゆはこれまで見せてきたようにニコニコ笑いながら毒を吐く方が似合っています。

冠番組で真夏さんやろってぃーをディスったりとか、『大人のカフェ』の千秋楽アフタートークでの「3人ともそんなに好きじゃない…」発言(これ好き)とか懐かしいですね笑


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前の記事では私個人として初めて接した「つか舞台」から受けた衝撃について書きましたが、この記事ではキャストの皆さんについての感想を書きたいと思います。

前の記事:

クレイジー、では伝えきれない


一言でいえば、みんな「キグルイ」。

まあ、そもそもこの数日前に「なんちゃら人狼舞台クラスター」発生が発表され調査が進められている最中でした。

そんな状況下で観客を入れて舞台をやる、
言葉を選ばずに言えば、やる方も行く方も正直まともじゃない。

そして登場人物はみな明らかに常軌を逸した、でもクレイジーという言葉では伝えきれないどこか哀切ななにかを抱えている人々でした。

憧憬と畏怖と憎悪の入り混じった感情を向けられながらも、自らの思う自分であるために周囲の者を傷つけ破壊しながら走り続ける銀ちゃんと中村屋。

口汚く罵られ足蹴にされても自分にとって大切な何かを手放すまいと懸命に亀の姿勢で耐えるヤスや小夏。

さらに演者自身もまごうことなき演劇グルイ。

かつて私はさゆの演技について「全然違う役柄をすべて見事に演じ分けているのに、それでも役のどこかにいつも彼女の生き様が透けて見える」と表現しました。

 

しかしこの『銀ちゃんが逝く』では味方良介さんも植田圭輔さんも細貝圭さんも、演者すべてがそうであるように感じました。

演者と役が一体化したような。
役柄を自分のものにしているとかそういうレベルじゃなく、憑依型というのもちょっと違う気がします。

うまく言葉にできないんですが、

「味方良介という名の銀ちゃん」
「小夏という名の井上小百合」

みたいな。

そこにいるのはまさに小夏で、それと同時に間違いなく井上小百合でした。

だからこそ、
傍若無人な振る舞いから漏れ出てしまう銀ちゃんの寂しさとか。
銀ちゃんという絶対的存在に委ね切った自分には何ひとつないことにとっくに気づいているヤスの自己嫌悪とか。
自分よりも家族よりも大事なものを背負わされた中村屋のどす黒い怒りとか。
(凄まじさ、という意味では二幕の細貝さんはとんでもなかった)

そういう全部がどうにもこうにも息苦しいほど生々しくて、辛くて。

胸が掻きむしられるようでした。

人間そのもので勝負できる役者さんが揃っていたのか。
この舞台と脚本、そして取り巻く状況が演者にそこまでのものを出させたのか。

汗をボタボタ垂らしガチで涙を流しながら叫ぶ彼らの姿は異様でおぞましくて、でも憧憬をかき立てられる。

もしかしたら観客の我々が観る彼らの姿=ヤスが仰ぎ見る銀ちゃんの姿、という関係式が成り立つのかもしれません。

銀ちゃんにずっと「テレビ上がり」呼ばわりされていた監督の「あんたが撮りたくて」も味わい深かったです。

「役者だから」


最後に改めて井上小百合の演技について感じたことを書きます。

まさかさゆが小夏を演じる日が来るとは思ってもみませんでした。
だって、あの松坂慶子さんが演じた役ですよ。

若さゆえの「蓮っ葉な」や「ぶっきらぼうな」ではなく、どこか年齢を感じさせる「擦れた」部分が求められる小夏は、これまでのさゆにはなかった役柄です。

そして小夏は激しく揺れ動く、難しい役でした。

女、妻、母、役者

自身の持つ様々な側面のプライオリティが劇中でどんどん-もしかしたら台詞と台詞の間ですら-、移り変わっていくのです。

混乱して矛盾しているけれど、全部嘘じゃない。
人間って、そういうものだから。

観ている者にそう感じさせることができた彼女の演技は素晴らしかったと思います。


上で書いたように「小夏であると同時に井上小百合」であったからこそ、その台詞が、所作が激しく心を揺さぶりました。

特に心に残ったふたつのシーンを挙げておきます。

日本脳炎の後遺症で手足がくっついていて周囲から「だるま」と呼ばれているヤスの甥「マコト」。

そのマコトが「小夏お姉ちゃんと海に行きたいから一生懸命風呂場で泳ぎの練習をしている」ということを聞かされた彼女は泣きながら微笑んで言います。

「笑わないよ。一緒に海に行こう?」と。

サユリスト歴が長い方には説明不要ですよね。井上小百合は決してマコトを笑ったりなんかしない。

もうひとつ。

ラスト、銀ちゃんの階段落ちで彼を斬る役目を任された小夏。
愛する男を斬り、階段から突き落とすことができるのか。
そう問われた彼女は不敵、と言ってもいい笑みを浮かべます。

「できるよ、役者だから」

役者になりたくて、なれなくて。もがいた年月を経て、ついにこの台詞を堂々と言えるところまで来た。

本当によかったな、とか思っちゃいました。

もう完全に小夏と井上小百合の区別がついていませんね笑


観ていて辛くて苦しくて、でも素晴らしい舞台でした。

本当に観てよかった。

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2020年7月に新宿紀伊國屋ホールで行なわれた舞台『銀ちゃんが逝く』の配信を観劇しましたのでレポートします。

仰いだ青い空が青過ぎる


本来は通常の舞台として2020年7月4日~27日に全24公演を予定していましたがコロナウイルスの影響により開催中止が発表されます。

しかし「リモートによる稽古で、向き合わず、俳優のエネルギーを伝えあう演劇」に挑戦し「朗読という名の演劇」へと形を変え、7月10日~12日のわずか3日間、全5公演の開催となりました(後に追加公演としてさらに5公演ありました)。

まあ「朗読劇」と謳ってはいましたが実際には朗読でも何でもなく「胸ぐら掴むのと抱き合うのだけはNGにした普通の舞台」でした。演者が台本を手元に置いていたのはナレーションを行なう時だけだったと思います。

公式による解説とあらすじはこちら。

蒲田行進曲とは

つかこうへいの代表作『蒲田行進曲』は1980年紀伊國屋ホールで発表された。
同年第15回紀伊國屋演劇賞を受賞。その後、小説として第86回直木賞を受賞、1982年映画化され、第6回日本アカデミー賞を独占した傑作中の傑作である。
そして1987年蒲田行進曲の完結編として発表された『銀ちゃんが、ゆく』は1994年舞台化され、1997年新国立劇場小劇場の柿落とし公演として上演された。

あらすじ

「新撰組」の撮影が進む東映京都撮影所。
初の主演映画に意気込むスター俳優銀ちゃん(味方良介)が、子分の大部屋俳優ヤス(植田圭輔)に 自分の恋人小夏(井上小百合)を押しつけることから物語は始まる。小夏は妊娠しているのだ……。
ヤスは銀ちゃんに見せ場を作り、小夏のお産の費用を稼ぐために、 危険な「階段落ち」に挑戦する。

しかし、ヤスが命をかけて生まれた娘のルリ子は、不治の病に冒されていた。そして小夏も、心の底からヤスを愛することはできなかった。
銀ちゃんは、自分の貧しく卑しい生まれの血のせいでルリ子が病気になってしまったのではないかと苦悩する……。

そして、新たな「新撰組」の撮影が始まる。
銀ちゃんは「俺の命と引き換えに娘の命を助けてくれないか」と祈る様な気持ちで一世一代の「函館五稜郭の石階段落ち」に挑む。
果たして銀ちゃんの祈りは、娘の病に打ち勝てるのだろうか?

(公式サイトより引用)


一幕がヤスの階段落ちまで、要するに『蒲田行進曲』部分。
二幕は銀ちゃんの階段落ちの話ということになります。

あまりにも有名な『蒲田行進曲』ですが、実は映画版は観ていません。

学生時代に小説を読み、女性蔑視や下品な表現が含まれた数多くの台詞にかなり強い生理的な拒否感を覚えました。少なくとも敢えて映画を観ようとは思わないぐらいの。
そのためこれまでに触れたつかこうへい作品はその『蒲田』の小説版のみ。

現在の感覚ではなおさらでしょう。コンプライアンスに引っかかりまくり。

ただ井上小百合が出演するとなれば観ないわけにはいきません。

この日、配信とはいえ初めて「つか舞台」に接しました。

衝撃でした。

でも、でも、でも、でも、


そこにあったのは、渦。

とんでもない量のエネルギーと感情が舞台上という中心点で渦を巻いていて、観ているこちらが引きずり込まれそうなある種の恐怖感にも似た感情。もしかしたら、演者たち自身でさえそこに引きずり込まれまいと必死に抗っているのかもしれないとさえ感じました。

うわ…画面越しでこれかよ。
そう思いました。

この熱量の芝居をリモートで稽古した?
信じられない。

「激情」「ハイスピード、ハイテンション」などと表現されるつか舞台。

その特徴のひとつともいわれるのが早口でまくし立てるような台詞回し。
でも演者の皆さんが上手いのでしょう、台詞の聞き取りはそれほど苦ではありません。

ただ普通に喋る台詞と叫びに近い台詞(これがまた頻繁にある)との音量の差が激しく、観ながらたびたびビクッとしました。ライブ配信なんで極めて困難でしょうが、ここはもうちょっとPAで調節していただけなかったものかと。

観る前に懸念していた自分自身の拒否反応は、やはりゼロではありませんでした。

特にヤスが身重の小夏を罵倒し足蹴にするところは観ていていたたまれない気持ちになり、早くこのシーン終わってくれと思っていました。

でも。

さんざん小夏をいたぶり倒した後で、汗と涙と鼻水でグチャグチャになった顔で「切なかったんだ、この心が」と吐露したヤスが、「銀ちゃん、小夏は俺の宝なんです」と語るヤスが、

なんかもう、愛おしかった。

幸せになってほしかった。

そう思ったってことは、私もきっとつかこうへいのマジックにかかったのでしょう笑


個人的に思ったのは現在のコンプライアンスに則って、かつ時代設定も現在にしてやったらどうなるんだろう。と。

スターになるために付き合ってた彼女を捨てる、のはまあありそうな話としても「スターになる」が確定するのってどのタイミングだろう、とか。
階段落ちに相当するような命がけの仕事ってなんだろうか、とか。

色々考えていたらちょっとここに書くとお叱りを受けそうな黒~い想像になってしまいました笑

ヤスも現在を舞台にしたらもっとサイコパスなキャラクターになりそうで怖い。
部屋でふたりきりになったとたん豹変したり、SNSで小夏の私生活を流して攻撃させたり。

うあ~絶対観たくない笑


だいぶ話が逸れてしまいました。

私は本当なら誰も虐げられない話が観たい。『リトル・ウィメン』が理想です。完璧に美しい世界だけど決しておとぎ話ではなく、しっかりと現実を生きる人間の美しさがある。そして現実もそうであればどんなに良いかと思います。


 

ただ、この『銀ちゃんが逝く』の登場人物たちの自分勝手で矛盾していて醜悪でありながら、己の命を燃やす姿に美しさを感じたのも事実です。

それはつか作品について時折使われる「弱者に寄り添う姿勢」によるものなのかもしれません。

うまく言葉にできないし、全面肯定もできません。
でも、観てよかった。

それだけは間違いなく言えます。


各キャストについては次の記事で書きます。

続きます。

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2020年6月に下北沢本多劇場で行なわれた舞台『齷齪とaccept』の配信を観劇しましたのでレポートします。

アーカイブ配信なしのリアルタイム視聴のみ。ビジネス的には明らかにアーカイブありの方が望ましいのにそうしないのは「舞台は一期一会」というこだわりゆえでしょうか。

We are back!!


2020年6月1日より下北沢の本多劇場が再開されました。

小劇場の聖地。
私も舞台を観に行くようになる前からその名前ぐらいは知っていました。

行なわれるのは11人の演者の日替わりによる「一人芝居の無観客生配信」。
そしてその中に「井上小百合」の名前がありました。

役者になりたいのに「君には無理だ」と言われて悔し涙を流した少女が、10年後に小劇場の聖地に、かねてから彼女自身「あそこに立ちたい」と言っていたその場所に立つ。

それだけでも感動的なのに

 演劇の灯を消すな

多くの人のそんな願いを込めてこの状況で行なわれる公演に選ばれた。

こんなシナリオ、誰も想像できないですよね。

「元乃木坂」の集客力を期待して。もちろんそれもあるでしょう。
ただ本多劇場に再び灯がともる日にその場にいることを許された。いやそれどころか請われてその場にいるというのはもうそれだけでさゆ推しとしては感極まりそうです。

これだから井上小百合推しはやめられない笑

演じたのは『齷齪(あくせく)とaccept』。
『じょしらく』の川尻恵太さん脚本(そもそも「DISTANCE」全体の企画も川尻さんです)で、初演は同じく『じょしらく』の『弐』で共演した小山めぐみさん。演出のニシオカ・ト・ニールさんも『じょしらく』で演出助手を務めていた方。

ちゃんと、乃木坂としての彼女の日々とつながっているんです。

かなえたい夢があるのに、それに向かって進んでいる感じが全然なかったアイドルとしての最初の数年間。それでも歯を食いしばって歩き続けた本人と、それを支えた周りの人々へのご褒美のような今回の抜擢。

まじめにやればいいことあるもんだな。

そんな感慨すら覚えます。

Baby Goodbye


そして、舞台に立った井上小百合はいつものように我々を驚かせてくれました。

あらすじを一言でいうと、戦争に行って帰ってこない作家の夫を50年間待ち続ける女性の話。

基本的には主人公の若い時から老婆になるまでを演じるのですが、一人芝居かつセットも最小限で衣装替えもなしという制約の中で、夫の書いた小説や回想シーンの登場人物に至るまで様々なキャラクターを流れるように演じ分けていきます。

『奇跡の人』のヘレン・ケラーとサリヴァン先生の名シーンを毒たっぷりに演じたり、「ヤギのマネ」や「恋に落ちたダンス」が気持ち悪い動きで最高に可愛かったり。
個人的に一番良かったのは『ジャック・ザ・リッパーふざけるな』の歌でのすっとぼけた表情ですね。

前半はコメディエンヌとしてのさゆの魅力が存分に発揮されていました。

やがて後半に差し掛かり物語が徐々に趣を変えてゆくにつれ、私はタイトルの意味が分かったような気がしました。

「齷齪と」=懸命に、「accept」=受け入れる。
「齷齪と」は「悪戦苦闘」も掛けているような気がします。
つまり「受け入れがたいことを懸命に受け入れる」姿を描いているのではないでしょうか。

受け入れがたいこと、それは「あなたの不在」。

想いが強すぎるからこそ、それに50年もかかってしまった。
そんな悲しくて滑稽で愛おしい人間の姿。

辛いからふざける。泣きたいからはしゃぐ。
前半のドタバタな演技が物語の後半に見事に収束していく様は圧巻でした。

そしてラストシーンで表現されていたのはふたつの相反する感情。

ひとりでいることの絶望的な孤独と
ひとりでもひとりじゃないと感じられることの暖かさ。

この両方を自分の中に感じた時、やっと主人公は夫の不在を受け入れることができたように思います。(本当は死んだのは夫じゃなくて主人公だったのかな?と思わせる余韻でしたけど、どうなんでしょう)

上で書いた「悲しくて滑稽で愛おしい人間の姿」。そのすべてを表現した井上小百合。

めちゃめちゃ気合入っててめちゃめちゃ強い思いでこの舞台に臨んでいることが観ている者に伝わる、素晴らしい演技でした。

終わった後の噛みしめるような「楽しかった…」がまた良かったですね。


2020年7月6日に井上小百合公式Youtubeで公開された「【井上小百合】「アイドル卒業後の女優業に密着」でこの公演の一部やリハーサルの模様を観ることができます。

川尻恵太さん、そして新たな所属事務所であるシス・カンパニー代表の北村明子さんのコメントも非常に興味深いのでぜひ一度ご覧になることをお勧めします。



そして「DISTANCE」も第2弾として8月に客席稼働率を下げての有観客+配信という形で開催することが発表され、今回も井上小百合は出演者に名を連ねています。



同じ『齷齪とaccept』なのか他の演目なのかはまだわかりませんが、こちらも非常に楽しみです。


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この記事はミュージカル『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』の内容に関するネタバレを含みます。

超実力派たちの競演または饗宴あるいは狂宴


この見出しの通り、出演者すべてが超実力派でとてつもなくゴージャスでクレイジーな演技をされていました。

スペースの都合でここでは3人だけ触れます。

まずはシーモア役。Wキャストでしたが私が観劇した日は三浦宏規さん。
『テニスの王子様』『刀剣乱舞』と2.5次元の超人気作からあの『レ・ミゼラブル』まで出演されている超のつく実力派。しかもまだ21歳。って本当?さゆより若い笑

シーモアというと個人的にはどうしてもJ.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』のシーモア・グラースを思い出してしまいます。もうそれだけで悲劇の予感しかしないですね。

当初の優しいフニャ男の演技が非常に良く、可愛らしい。(だからこそその後変わっていくのが悲しいのです)
そしてオードリーⅡ(以下「Ⅱ」)のブレイクにより周囲の状況が変わっていきそれに流されていく姿、さらに言葉を話し始めたⅡの要求に苦悩。さらにⅡに「食事」を与えるようになった時の狂気をはらんだ表情。そこから我に返りⅡと対決しようとする姿。オードリーの最後での哀切な表情…

ひとりの青年が成長し狂気に墜ちそして大切なものを失い命を懸ける決意を固めるまでの姿を演じ切っています。

シーモアって「何もない」普通の人なんですよね。ごくごく普通でちょっと気弱な青年が親に捨てられスキッド・ロウという過酷な環境で生きてきたために自己否定の傾向が非常に強くなり、それと同時に内部には少しずつゆっくりと負の感情が蓄積してしまっていた。

妬み。恨み。憎しみ。

凶行のたびに自分を納得させる何らかの理屈が必要で、一生懸命自分に言い聞かせながら狂気に墜ちて行く。でもそれは実は自分の内側に元からあった負の感情を開放していることにほかならない。だから彼は毎回苦悩するのです。

「本当は最初から全部お前の望んでいたことなんだろう?」そう、自分に問いかけながら。

その表情が三浦さんは素晴らしかった。


オリン役の石井一孝さん。
この方も『レ・ミゼラブル』でマリウスやジャン・バルジャンを演じたベテランの超超実力派。

オードリーの彼氏にしてサドの歯医者。人が苦しむ顔を観るのが悦楽という最低最悪のクズなのになんか憎めない。

もう全部の圧が凄い!
ただでさえ超絶イカれたキャラクターを濃いい顔とパワフルなダンスと爆発的な歌唱力で演じられるのですから。胸やけしまくり、でもまだ食べたい!って感じです。

『歯医者さん(Dentist)』の歌唱も凄かったのですが、やはり白眉はシーモアとの対決シーン。
ガスを吸ってハイになりながら最後は窒息してしまうのですが、苦しそうにジタバタしながら狂ったように笑いそして歌う。いや~壮絶クレイジー(褒め言葉です)。

まさに「怪演」でした。すんばらしい。


Ⅱの声、デーモン閣下

言わずと知れた相撲通の御方です笑
なんといっても1人称が「吾輩」なんですよ!「デーモン小暮そのものじゃん!」と笑いながらも完全にⅡでもあるという離れ技。

そして当然ですが歌唱力がバキバキに高いのでシーモアとのデュエット曲であるロックナンバー『持ってこい(Git it)』の気持ちいいこと。

もはやⅡの声は閣下以外に考えられないぐらいのはまり役でした。

ショー・ストッパー


井上小百合にとってこの『LSOH』が乃木坂46の名前を背負って上がる最後の舞台。
開幕前からこの舞台のラスト大阪公演を4月26日まで勤め上げ、その翌日の27日をもって卒業することが発表されていました。

妃海風さんとのWキャスト。東京ではさゆは3月14日から4月1日まで14公演に出演するはずでしたがコロナ禍により初日から3月19日までの公演が中止。20日から再開するも28日から千秋楽までの公演が再び中止。

そして東京公演以降に予定されていた山形、愛知、静岡、大阪と周る全国ツアーもすべて中止となります。

結局、井上小百合がオードリーとして舞台に立ったのは6回だけでした。

もちろん、彼女だけの話ではありません。
この時期から記事作成時点まで乃木坂の中でも何人ものメンバーが公演の中止を味わいました。その多くは全公演中止の憂き目にあい、中村麗乃の出演した『SUPERHEROISM』ではたった1日だけの公演ということもありました。

でもやっぱりさゆは無念だったと思います。

この舞台を成功させるため、断腸の思いでバースデーライブの出演を絞ってまで懸けていたのに。

本人はそういう言葉を口にはしなかったけれど「乃木坂の井上小百合の総決算」として気合が入りまくっていたでしょうし、これまで応援してくれた東京以外のファンの元へ行ける機会も心待ちにしていたはずです。


そして舞台に立った彼女が演じたヒロイン、オードリーはなかなかに衝撃的なキャラクターでした。

ざっくり胸元が開いた娼婦のようなドレス。過去最大級の露出度。正直こちらが照れてしまって正視しづらいぐらい。

DV彼氏と付き合って顔に青タン作ったり三角巾で腕を吊ってたりという痛々しい姿でも「だって彼はお金持ちだから」と屈託なく微笑む彼女。それを今までのさゆからは聞いたことがない、ベティちゃんみたいなファニーボイスで言うのです。

最初はこれ「男に媚びる女」というキャラづけだと思ってました。途中で素直な自分を出すようになったら普通のしゃべり方になるんじゃないかと。

でもそうではありませんでした。
彼女は聖なる愚者、映画『道』のジュルソミーナだったんです。(しゃべり方も最後までそのまま)

少しおバカさんだけど綺麗な心を持っていて、シーモアの優しさも魅力も、そして自分に好意を寄せていることもすべて気づいていました。

しかし舞台となっているのはロサンゼルスのダウンタウンで「全米最悪の危険地帯」とも言われるスキッド・ロウ。そんな街で生まれ育ったオードリーはきっと「綺麗なままではいられなかった」のでしょう。

結果として強い自己卑下や自己懲罰傾向を持つようになった彼女は「シーモアみたいないい人が自分のような女と一緒になっちゃいけない」「自分はサディストのオリンにすがりついているのがお似合いだ」と考えます。

だから『どこか緑に囲まれた場所で(Somewhere That's Green)』で彼女は歌います。
緑の多い郊外の小さな家でシーモアと慎ましくも幸せな家庭を築きたい。
「でもそんなの夢ね」と。

しかしついに、そんなふたりの心が触れ合う時が来ます。

『サドゥンリー・シーモア(Suddenly Seymour)』。

「自分なんて幸せになるに値しない」とサディスティックなオリンに傅いていたオードリーが、ついに自分を肯定し「こんな私でも幸せになっていいんだ」と思えた瞬間。
(しかしその時既に相手のシーモアは多くの罪を犯し「幸せになってはいけない人」になっていたというのがまた辛い)

そのカタルシス。
だからこそこの『サドゥンリー・シーモア』は心を揺さぶるのです。

そしてそれは8年間アイドルとして頑張ってようやく役者としてのスタートラインに立てたと感じ卒業を決意した井上小百合に、ほんの少しだけ似ています。

だからでしょうか。
もの凄かった。

あの「さゆにゃん」が。『初恋の人を今でも』を星野みなみと可愛いくてか細い声で歌っていたあの井上小百合が。

ド迫力の野太い声で

ツァァァドゥウンリィィィイヅゥイィイムゥオォァァァァァア!!!!

そりゃ涙も出ますよ。

1982年のミュージカルと1986年の映画の両方でオードリーを演じたエレン・グリーンのド迫力の歌唱を研究したのでしょうか。それに通じる凄味。
その歌唱と演技に、もう歌詞なんて全然頭に入ってきません。
ただただ圧倒され、痺れるだけです。

いつ、突然千秋楽が訪れるかわからない。
そんな状況に「ここを死に場所と定めた時の井上小百合の爆発力」が炸裂します。

アンダラ2ndシーズンや『リトル・ウィメン』で観せた「あれ」。それを改めて見せつけられた思いです。





最後になってしまいましたが、このミュージカルは大前提として曲が素晴らしいんですよ。
そりゃ巨匠の出世作にもなるわな、っていうと偉そうですけど笑

『サドゥンリー・シーモア』があまりにも良すぎて家帰ってから調べたら、言わずと知れたミュージカル史に残る名曲なんですね。

実際に今回シアタークリエで演奏しておられた方が『LSOH』の曲をリモート演奏してYoutubeに上げています。

 

とても素敵な演奏なので、観劇された方もできなかった方にもぜひ一度聴いていただきたいです。


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伝説のアンダーライブ2ndシーズンを題材にしたセミドキュメンタリー小説。あの頃の熱量を叩き込んだ渾身の50,000文字です。
 

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当ブログに掲載された記事を再構成し加筆したもの。総文字数10万文字、加筆部分だけでも22,000文字以上のボリュームでブログをご覧の方にも楽しんでいただけることと思います。



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